釣行日 場所

2005年6月1日-2日 九頭竜川

「静かな釣り」

 

私の知る限り、どんな釣りでも名人というものは静かな釣りである。この「静かな」というのは、寡黙であるとか、もの静かであるとかという意味ではない。また「木化け石化け」と渓流釣りでよく言われる気配を消して風景に溶け込むことでもない。 

直接釣りに関わる振り込みとか、竿のさばき方、合わせは勿論のこと、竿を伸ばすとか、鉤を結ぶ、石を伝う、魚を取り込むといった一つ一つの動作に無駄がない。またその所作と所作の流れがまことにスムーズなことを指す。 

冨士会長は何につけてもよく「これはちょっと無理があるなあ」とか「それは無理やないかな」という表現をされる。テンカラに関しても、振込み、竿さばき、流し方について、合理的で無理のない釣り方を追求されている。これが詰まるところ、すべてにおいて「静かな釣り」につながっていると思われる。 

「釣魚大全」に有名な「Study to be quiet !(穏やかなることを学べ)という一句があるが、私は今までずっと、生来、気の短いのが多い釣師に対して、「まあ業わかさずに釣りなはれ!」と教え諭す言葉だと解釈していたが、これはどうも冨士会長のような「静かな釣り」のことではないか。がちゃましい、がさつい釣りに名人はいない。手馴れた職人の技は静かなものである。 

さて、6月1・2日と冨士会長と九頭竜川の小屋へ出かけた。 

私が散々流して釣れなかったポイントで、会長が「田中はん違うんですわ。ここをこうこうこないして、こんな風に釣るんですわ」と流された毛鉤に、ポンと出た魚が3匹いた。いったい何が違うのか?このことは私に多くのことを考えさせ、示唆してくれた。 

結論を先に言えば、毛鉤の流し方が違うのである。それも会長の毛鉤がより流れなりに自然に流れていたというのではなく、誘い方が違うのである。よい誘いは、結果、魚が自然に出る。何の無理もなく警戒もせずに出る。その3匹はすべて会長が誘って出した魚であった。 

毛鉤を流れなりに自然に流しても釣れない魚を釣る。よく「釣った」と「釣れた」は違うと言われるが、同じように「自然に出た魚」と「自然に出した魚」は違うのである。テンカラというのは、ただ毛鉤を打ち込み、流れなりに流し、出た魚を合せるといっただけの単純な釣りではない。 

例えば、ラインのスピードとかラインの重みに頼って、肘を支点にして振込むといった杓子定規な振込み方では、テンカラが単調なものになってしまう。 

また、毛鉤は何でもよいというものではない。そして毛鉤はこれ一つで間に合うというものでもない。どこの魚をどう釣るか。その組み立てを考えた場合、自ずから毛鉤の選択が決まってくる。極論すれば、毛鉤は何でもよいということは、ええ加減な釣りをしているということに他ならぬし、毛鉤がワンパターンということは釣り方もワンパターンなのである。結局、釣れる魚しか釣れないし、その日の魚のご機嫌にも多くを左右される。 

毛鉤を自然に流しても釣れない魚を、誘い出して釣る。ここにテンカラの本当の面白さがある。「自然に流して釣れた魚」と「誘って釣った魚」は同じ一匹でもやはり趣きが違う。「してやったり」と一人ニンマリするのはこんな時である。 

ただどこかに無理のある誘いは魚を警戒させて、釣れる魚も釣れなくしてしまう。例えば、逆引きとは、単に毛鉤を吊り上げ、流れに逆らって上流に引き上げることではない。これでは皆さまご存知のように、魚は出るけれどもいっこうに掛らない。あくまでも無理のないように毛鉤を逆引いて、魚を誘い出すのである。一見、不自然に見える逆引きも、会長が流すと、魚にとってそれなりに無理なく流れているように見えるものらしい。これは捨て鉤による誘いの効果も同じことである。 

ここ数年、会長は「予測の釣り」というものを唱えられている。この予測は、長年の経験則で裏打ちされた確固たるものである。広く冨士流テンカラの代名詞にもなった「捨て鉤」は山の木の一本に過ぎない。この「予測の釣り」こそが本山である。 

どこの魚をどう釣るか。そこを組み立てて、ラインを自在に操り、毛鉤を振り込み、流す。ときには誘って魚を出す。これが「冨士流テンカラ」の基本である。振り込みと毛鉤の流し方は竿さばきに由来する。竿は手首、肘、肩という腕全体で柔らかくあやすものである。竿を固くあやすと、どうしてもラインの軌跡も固くなり、毛鉤も固く流れる。 

チヌの筏釣りで、大物が掛った時に、短い筏竿だけでは魚をいなすのに限りがあるので、腕全体、体全体でやり取りをしている。腕は竿の延長である。手首だけで竿を扱うのは、竿の穂先だけで魚をいなしているようなものである。これは無理がある。 

冨士流テンカラの竿・ライン・毛鉤は、それぞれ無理のないように突き詰め、考え抜かれた道具立てである。それらを十二分に駆使して、本流も支流も源流域もすべてを釣りこなすことが出来なくてはならない。京都北山テンカラ会の会員は大変である。テンカラというものは、本来、そういった奥行きも幅もある釣りなのである。 

十人十色といわれるテンカラ、もちろん釣りの楽しみ方はいろいろであるが、釣りの技術においてはけっして多種多様なのではない。もしそれもあり、これもありなら、それはただの混乱である。 

京都の冨士宅に戻ると、奥さんと娘さんが出迎えて下さった。小屋で焼き枯らしにした魚を食卓の上に並べた。私が「ほんまこの親っさん、手品みたいにポンポン釣ってんですわ」と言うと、会長が「種モ、仕掛ケモ、チョトアルヨ」とニヤリ笑われた。

 

 

   

取材:京都北山テンカラ会  田中 佳憲

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