釣行日 場所

2003年7月12日 千代川

蕎麦畑のテンカラ教室


七月、畑には蕎麦の小さな白い花が咲いていた。川は増水していたが濁ってはいない。今日はこの蕎麦畑の土手の上からのテンカラである。

夕暮れ、灯ともし頃、まず長良が竿を握った。白泡の消える辺りに毛鉤を打ち、次の落ち込みの肩ギリギリまで流す。しつこく十回ほど流したが反応がない。二、三歩前に出て、今度は白泡の中に毛鉤をほりこみ、流した。一応、白泡の真ん中、左、右と本人は打ち分けているつもりらしい。しかし、魚は出なかった。

少し上流に移動し、次のポイントを攻めた。やはり出ない。

    長良が「あかんなあ」と振り向き、そのままその立ち位置から最初のポイントを攻めた。今度は上手から毛鉤を流すことになる。白泡の辺りに毛鉤を打ち、ラインを少し持ち上げて毛鉤を浮かし、ゆっくりと少しだけ逆引きしてから流れに乗せた。落ち込み寸前でピックアップ。私は「なかなかうまいこと流しよるわいな」と思って見ていた。

「グググッ」ようやくここで出た。瞬間、長良が「やった!」と叫んで、一気に土手の上から魚を蕎麦畑に引こ抜いた。まあまあの塩焼きサイズの岩魚である。
    次は太公の番である。この辺から後ろの畑には、マムシ草のような模様の茎をした見慣れない植物が整然と並んで植え付けられていた。しかしマムシ草と葉っぱが違っていた。

少し大きな淵に出た。大きいと言っても川幅いっぱい、畳み三畳分ほどの広さである。落ち込みの流れが二分されていて払い出し付近で合流している。その間にちょうどほどよい三角形の淀みが出来ていた。

そこしかないと決めて打った一投目、魚が毛鉤を咥えてラインが上流に走った。すかさず太公が「来た!」と竿をしゃくった。しかし柔らかいハエジャコ竿では抜ききれずに、土手の草むらに絡んだ。私は慌ててライン掴んで魚を引き上げた。これもまあまあの塩焼きサイズの岩魚であった。
 
  子どもらには最初から「予測の釣り」を教えている。ポイントは様々、いろいろな状況下での「予測」があるのだろうが、子ども向けにはワンパターンである。とにかく徹底的に@白い泡の消えるあたりに毛鉤を打ち込み、ラインをすぐに立てて、A次の落ち込みギリギリまで自然に流して、Bすばやく引き上げる。その限りにおいて、毛鉤が見えるときもあるし、見えないときもある。魚の出るのが見えるときもあるし、見えないときもある。しかし、ここで食うという一点を見極め、毛鉤をピックアップする。そしてこの「予測の釣り」を持ってするなら、子どもらでも、目の弱ってこられたお年寄りでも、素早い渓魚に対峙することができる。

昔、タタキとかトバシとか呼ばれていた各地の職漁師の釣りは、私が神村師匠から聞いたサンカの毛鉤釣りも含めて、「1、2、3のリズムで空合わせ」していたようである。そして、昔は魚が多かったからそれでも釣れたと言われてはいるが、本流のカワムツならいざ知らず、やはり職漁師も一種の「予測の釣り」をしていたような気がする。理論的な説明はできなくても、経験上、体で覚えた「技」であったことだろう。

山本素石が広めて(これはこれで誠に素晴らしいことではあるが)、そしてはからずも「合わせ」を難しくしてしまった「テンカラ」が、「予測の釣り」で、ここに来てある意味、職漁師の釣りに立ち戻ったような思いがする。

車まで戻る途中、ちょうど通りがかった村の人に先ほどのマムシ草みたいな作物のことを尋ねた。村人は「たぶん蒟蒻芋やろがな」と教えてくれた。

帰りの車の中で、長良が「コンニャク、今夜食う」と駄洒落を言った。みんなが笑った。

取材:京都北山テンカラ会  田中 佳憲

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